JAZZの曲なんてぇのはありません

ジャズ喫茶を巡るというのが年配者の方だけでなく20代30代の方々にも
ある種のブームになりつつあると言った機運が盛り上がっいます。
ただそれらの方々の大半はジャズを楽しみたいという目的ではなく
ジャズ喫茶というもの自体が好きという方である事も重々承知しています。
まるでスタンプラリーのようにジャズ喫茶を飛び歩く方も
そういった方に対して眉を顰める向きもあるでしょうが
実のところ昔からジャズ喫茶へと通う方の大半は
真剣にジャズを聴いているわけでは無いというが本当のところ。
私はこういった新たなジャズ喫茶へと足を運ぶ方々について
とても好意的に感じています。
そしてそのうちの一割の方でもジャズの魅力に気付いてもらえれば
嬉しいこと極まりないと思っています。
ジャズを聴くという事に関して他の音楽を楽しむという事と
何ら変わりはないのですがジャズ特有の事情というものがるのも事実です。
最近ジャズを聴き始めたという方々と接するにつけ
ちょっと知っておいたほうが良いことがあるなと思いこのような記事を書いています。
まず最初に知っておいて(さらにはよーく理解して)欲しいのは
ジャズの曲というものは存在しない
という事です。
「エリーゼのために」 と言えばクラシック
「天城越え」といえば演歌
「傘が無い」といえばフォーク
「渡良瀬橋」と言えば歌謡曲
「スモーク オン ザ ウォーター」と言えばロック
「木曽節」と言えば民謡
……etc.
かようにある音楽のジャンルと曲というのは強固に結びついています。
ジャズを聴き始めた人にとっては
ジャズにもジャズの曲があるはず
と思い込んでしまうのです。
とくに古典的な60年代以前のジャズを聴いてばかりいれば
「サマータイム」、「枯葉」と聞けばジャズの曲と思いがちですが
「サマータイム」はガーシュインによるアメリカンオペラ「ポーギーとべス」の幕開けの曲です。
「枯葉」はイヴ モンタンにより(映画経由で)大ヒットしたシャンソンです。
このようにジャズの代表曲のように思われる曲たちも
元をただせばジャズの曲ではありません。
これは本当に大切な事なのですが
ジャズというものの本質は曲の中に存在するのではありません。
では一体ジャズというものの本質はどこにあるのか
それはもちろんジャズメンの中にジャズがあるのです。
つまりはジャズメンが演奏すればどんな曲でもそれはジャズになるわけです。
民謡であれクラシックであれ歌謡曲であれボサノヴァであれ
なんでもござれです。
それではそのことを端的に感じられるアルバムを
皆様になじみ深いブルーノートから
リー モーガンのヒットアルバム「ザ ランプローラー」
この二曲目に収めれれているのが"Desert Moonlight"ですが
これは日本の「月の砂漠」です。
つーきのーさばくをー♪てやつですね
もう一つブルーノートから
ブルーノートのドル箱スリーサウンズの「イントロデューシング」
この最後に収められているのが「オー ソレ ミオ」
もちろんイタリアのカンツォーネを代表する曲
わたしは確か中学の音楽の時間で習ったけれど今はどうかしらん
というように
ジャズメンが演奏すればそれはどんなジャンルの曲でもジャズになるという事実。
このことは他の音楽ジャンルとは著しく異なる大切な事なので覚えておいた方が良いです。
ただジャズメンがジャズを演奏するために自ら作曲をするという事があり
これらは基本的にジャズの曲であると言えなくは無いです。
たとえば
デューク エリントンの「テイク ジ Aトレイン」
セロニアス モンクの「ラウンド ミッドナイト」
ボビー ティモンズの「モーニン」
……etc,
しかしながらこれらの曲も譜面通りに演奏するだけではジャズにはなりません。
たとえば吹奏楽でいかに上手に譜面通りに演奏が行われていても
それはジャズとは言えません。
これらジャズメンの手になる曲であってもそれらがジャズとして輝くのは
素晴らしいジャズメンの演奏があってこそのものなのです。
ジャズという曲は無いという事
ジャズの本質は曲ではなくて演奏者のジャズメンが握っているという事
この二つはジャズを聴き始めたばかりの人は
覚えておいて損は無いです。